走り書き

 できるうちに書いておかねばならないこと。いずれ、また別の形で書き直すかもしれない。昨日の出来事と頭痛。それは異質な、言い換えればわたしにとっては特別な、滅多にない啓示のような事件だったが、過去のどこかで似た体験をしているという感覚があった。あの頭痛には覚えがある。しばらく分からなかったが、ちょうど一年ほど前、この日記を書き始めた頃の出来事に非常にその肌触りが似ていた(こういう時に日記は便利である。記録によると、昨年の7/19の経験だった)。あの時と違うのは、今回は文字通りしらふであること。わたしはもう一週間以上アルコールを口にしていない。一人で呑むのはいつの間にかやめてしまった。そのためにすぐには昨日の経験からあの日のことが繋がらなかった。あの時の頭痛もひどいものだったが、半ばは酒のせいかと思っていた。昨日のことから鑑みるにそうではなかったのかもしれない。もうひとつ違うこととして、あの日はどうしようもなく巨大なものに(少なくとも、あの時期のわたしには巨大に見えた)圧倒されて、なすすべもなく、もはや麻痺した判断力で破滅の方へ向かっていったが、昨夜はそういうことはまったくなかったこと。確かに昨晩も、熱に浮かされたような、おそらく正常ではない感覚に支配されていたが、それはぐるぐるわたしの胎内で暴れるだけで、どこへも向かおうとはしなかった。今にして思えば不思議なものだが、死とかそういうものへの連想はどこにも働いていなかった。むしろかっかと熱くなり、それは病的なものかもしれないが、ある種の生命力のようなものまで感じさせられた。同じこと。出かけた場所が比較的近いこと。一年前のその日に酒を飲んだ人の一人と会ったこと。そして耐えがたい頭痛。


 これとはまったく関係もなく、もうひとつメモ。語り始めた物語は、必ず結末をつけなければならないと思う。どれだけ無様で、そもそもわたしのほかに誰も見ないとしても。それが読みえないようなものになってしまうだろうとしても。そしてどんな言葉にさえも開かれていなければならないと思う。だからわたしは、書きかけた全てを何とか決着させなければならない。案山子の死体掃除人として。これらは、くだらないことかもしれないが、偏屈で狭量なわたしが保つ意地みたいなものである。


 さらに関係のないメモのためのメモ。ちょうど一年ほど前に「わたし」を選択したこと。自分自身を捨てること。集合と元。