猫を殺す

 穏やかに右手に力を込めると首はあっけなく砕けてしまった。わたしは猫を殺した。柔らかな頭蓋を損なわぬよう、ただ頚骨だけが挫かれるよう、精密に動かした手の中の感触が指の砂粒に残っていた。音はしなかった。乾いた落雁を潰した手触りに似ていた。
 また夢をみた。
 わたしはひとりで歩いている。今出川の通りは市内ではかなり広い部類で、とくにこの交差点手前は車道も舗道も花束の形に膨らんでいる。十字に交わる道路に加えて出町柳から下りる裏道が五叉路を形作っている。そのやや西、ファーストフードと飯屋、飲み屋の並んでいる界隈、南から伸びてくる細道が点々と顔を出すあたりを、わたしはひとりで歩いている。バス、タクシー、スクーター、どれも背中から追い越していく。いつもの帰路、普段どおり車道はざわめいている。なのにわたしは静かだと思う。しばらく歩いたはずなのに、ずっと同じ場所にいる。あるいは立ちすくんでいたのか。左手には牛丼屋の看板が見える。中には客がたくさんいるのだろう。ごてごてと貼られたポスターで店の中はうかがえない。右手はいつも同じ角度で大通りを映している。わたしはまったく進んでいない。不思議だとも思わない。気がついてさえいなかった。人はまばらで、こちらを向いているものはいない。腰の曲がった老嬢が舗道の隅で手押し車を進めている。ぼろ布のスカーフに遮られ彼女の顔はうかがえない。やはり静かだった。やかましい静けさというのか。すぐにわたしは声が無いことに気がつく。誰の声も聞こえない。声どころか、自動車のエンジン音もブレーキも、そういうひとつひとつの音が無い。ただ全体がざわめいているだけである。
 単調な喧噪の中を音も立てず乗り物が行進していく。向こう岸の車線、草色のはずのバスは天井から斜めに突き刺さる陽光と影を受けて色彩と立体感を失っている。ガラス窓は暗い反射に閉ざされてボール紙の裏側の色をしている。中は見えない。きっと客を満載しているのだろう。そういえばどの自動車にしても運転手の姿は見られなかった。フロントグラスの斜面にはボンネットが映り込み平板な紙細工のようになっていた。リズムの無い雑音の中にもそれらは何も落とさなかった。ただ静かに行軍していた。音感の無い風景だった。彼らはまるでまったく動いていないかのようにも思われた。
 その静止した隊列の足元に一匹の子猫がいた。目は開いているものの体格は小さい。まだ赤ん坊なのだろう。夢の中だったからなのか、毛並みは青みがかった灰色でところどころに黒い文様が滲んでいた。腰から下が砕けていた。前足だけを立て、頭を起こし、二、三歩体を引きずるが、すぐまた崩れ落ちる。こちらに顔を向けて、それからしばらく痙攣していた。猫は何度も車に轢かれたようだった。手押し車の老婆は日よけの下に隠れた鼻を子猫の方に一度向け、それから自分の軌道に戻った。その間も足を止めることはなかった。猫はまた肩を起こして、だが一本足では支えきれずに潰れてしまう。いざり歩きもできなかった。そして小さくのどを鳴らした。
 わたしは車道へ向きを変え、猫のところへと向かった。進路を遮られた老婆が抗議するように顎を上げたが、相変らず表情まではうかがえなかった。アスファルトは白く乾いていた。かがみ込むと、子猫特有の短い体毛が濡れてそれでも逆立っていた。わたしの作る影の中、湿った毛先がその影を乱反射して色のない色彩を作り出していた。脱いだジャケットに抱え込むと、まったく抵抗はしなかった。背中越し空気も動かさず、タクシーがすぐ傍を走り抜けていった。白い上着に包まれて、猫は片手と顔だけを出していた。わたしの顔を見つめていた。ほんのかすかに緑がかった、深い青色の目をしていた。透明で、それでいて光を通さない、波立つ模様の両目をこちらに向けていた。産着にくるんだ布越しに、体温はまったく感じなかった。だが空気を吐くたびにかすかに体をゆらしていた。猫は瀕死だった。わたしは一度両手に抱えた。歩道に戻ると、いつの間にかやってきた老婆が肩越しにこちらをうかがっていた。わたしは猫を日陰に下ろした。もう呼吸も苦しいようだった。口は半開き、それ以上開くことも閉じることもできず、その隙間からわずかな空気を呼吸していた。下半身には感触がなかった。腹は裂けて、内臓が飛び出していた。大量の粒パスタを思わせる黄色い残骸が傷口から流れ出していた。脂色の塊から無軌道に突き出した細長い墨色の臓器は、すでに生命感を失ってプラスチックのパイプのように思われた。血すら流れていなかった。ただ粘りつく粘液だけがジャケットに染み込んでいた。猫は今にも死のうとしていた。
 片手で頭をなでてやると、おとなしくそれに従った。耳だけがまだ、ぴんと三角に張っていた。目を閉じて、気持ち良さそうになでられていた。わたしは手の平をその頭の形にあわせて、親指と小指を耳脇にあてがい、それから三指をそっと沿わせた。左手を肩に回してやると、その時初めて、子猫がとても軽いことに気がついた。猫はもう何も言わなかった。わたしは手首を注意深くひねらせて、彼女の首をそっと砕いた。折れた感触さえ残さずに、柔らかく崩れた手触りがした。ほとんど力は要らなかった。ただ几帳面に砂糖菓子を潰したようなものだった。老婆はつまらなそうにどこかへ行った。わたしはジャケットに猫を包んで大学へと引き返した。ひと気のない一角の木陰の腐葉土を手で掻き出して、わたしは猫を埋めた。それからいつもとは違う道を通って、自分の部屋に帰ることにした。