今日のこと

卓上時計が十二時の少し前で止まっていて、これから何かをしようと思い、けれど何もすることが見つからなかった時、わたしはさみしいのだなと気づいた。がらがらと口をすすいだ水道を閉めて、少しくたびれたタオルを替えて、それでやることもなくなった。思えば最近本を読むことすらしない。どこかで足を踏み外して、はじめはむしろ、こちらに行ったらどうなるのかというささいな思いつき程度の、気にもとめないような踏み違えで、けれどもそれはいつの間にか戻らなくなった。一つの歯車が外れただけで、そこからつながる全ての機構が働かなくなってしまうように、いつかにどこかで石段をひとつ踏み違えたのだろう。ほんのわずかに前のことにも、あるはずっと昔のことにも感じるような、今は手の届かないいくつかの過去に。そうして呆けている間にも、閑散とした机の上では何も起こるはずもなく、時計はまるで進んでいない。そんな永遠を舐めることがさみしさの実体なのかもしれない。