久しぶりの厨房

 ものを作らなくなって久しいが、久しぶりに料理をした。食べてくれる相手がいないと料理すらしなくなるもので、実家に帰った時を除けば四年ぶり近い料理である(書いてから思い出したが、半年前にも料理をしている。研究室の後輩二人が遊びに来たことがあったのだった)。


 「スパゲッティ・だいぶ足りないブッタネスカ」
 料理は久しぶりにするものではない。調理道具はほこりをかぶり、熱湯消毒から始める羽目になるし、調味料などは全て買いなおしである。酒や砂糖などにしても、自分が何を持っていたかを忘れている。半年前に「オリーブオイル」(それもエクストラ・バージンではない、匂いのおだやかなもの)を買ったつもりでいたのだが、フライパンに出してみたら、なんということか、この匂いは「グレープシード・オイル」、それもにおいのきっついエクストラ・バージンではないか。もう全てがこんな調子で、初めからつまづきまくりである。それでもせっかく三条明治屋で乾燥パスタを買ってきたので、何かしらつくることにする。
 ブッタネスカ、すなわち娼婦風スパゲッティとは、イタリア(シチリアだったかも?)の娼婦が忙しい合間に適当に作ったら旨かった、という伝説つきのパスタである。トマトに、オリーブ、ケッパー、アンチョビ(オイルサーデンで代用もできる)、にんにく、仕上げにチーズという組み合わせで、まあイタリアのご家庭ならば食糧庫をのぞけばたいてい転がっている材料なのだろう。具の種類は使うが具沢山にならないように、シンプルな味の取り合わせを楽しむ料理である(イタリアンにはカプレーゼなど、そういう指向の料理が多い)。で、その組み合わせが一体の味になるところが眼目なのだが、まずオイルがオリーブでない時点で一歩道を踏み外している。
 今回は割と細めな麺(スパゲッティーニ、普通のスパゲッティより一回り細いもの。表記には1.4ミリとあった)を使った。麺との相性のこともあり、トマトソースというよりはオイル系な感じに仕上げようと思っていた。味の要素は抑え目でアンチョビもケッパーもなし、代わりに、半ばペペロンチーノ的にオイルを多め、にんにく多め、唐辛子もほんの少しだけ使い、オイルにしっかりにおいが移ったところでにんにくと唐辛子を捨てる。しっかり味の移った油でトマトをいためるのだが、ここでフレッシュの代わりにサンドライトマトを使う。ペーストを作るように油に半ば絡めるようにしてドライトマトを炒めていく。特有のにおいが立ったところでパスタと絡め、仕上げに軸をちぎり捨てて葉だけにしたイタリアンパセリをまいて、パルミジャーノを削りかける。塩はパルミジャーノを多めにかけることを考えて初めから押さえてある。
 本来のブッタネスカは(フレッシュ)トマトのさわやかな水気のある香り、オリーブの鼻に一旦籠もってから抜けていく重みのある香り、にんにくの香ばしさ、ケッパーの酢味のある線のような香り、それからアンチョビの塩味と鈍器のような複雑な香り、それらが積み重なって一つになるのが楽しい料理である。今回もくろんだのはその味の要素を押さえ目にして、オリーブで全体をつつみ、フレッシュよりも重たく、また乾物臭のあるサンドライトマトの渋い香りとにんにくの香ばしさ、それからパルミジャーノのこれまたモノトーンな渋い香りを対決させてみようということであった。ことであったのだが、いきなりオリーブオイルがないという事態に見舞われてぐだぐだになってしまった。
 とりあえずオイルはグレープシードで代用したままもくろんだ通りに要素の少ない、ひとつひとつが割にはっきりとしたオイル系ソースができた。もともとの素材のよさに助けられ、大失敗のあったわりになかなか食べられるものに仕上がった。


 「ひらめのこぶ締め」
 切って並べるだけが刺身ではない、ということでヒラメをこぶで締める。出汁用のこんぶのゴミを掃除し、洗わずに、表面を濡れ布巾で拭いた程度に日本酒を塗る。刺身用にサクから切ったひらめをその上に並べて冷蔵庫で寝かす。両面をこんぶで挟んで軽くおもしをしたり、あるいはサクのまま締めるやり方などもある。わたしは水気の抜け具合が見やすいのでこのやり方をよく使う。身の水分がこんぶに吸収されて、肉が引き締まり、だが硬くなりすぎない程度なくらいでこんぶから外す。切り方や季節、ひらめの具合などにもよって時間は変わる。こんぶのにおいが移り過ぎないように注意する。今回もいつもどおりに問題なくできた。わさびとお醤油でいただいた。


 「大豆のシチュー」
 トマト味のシチューにする。ジャガイモ、タマネギを一口大に切り、にんにくを数個むいておく(にんにくは粒のまま使う)。しょうがをにんにくと同じ大きさにきり、割るような感じに一本だけ包丁目を入れておく。カレー用の赤味の牛肉をいため、表面に火が通ったところで上の材料を入れてさらにいためる。全体に軽く火が通ったら大目にこしょうを振り、全体を寸胴鍋に入れて水と白ワインで煮る。ひと煮立ちしたらあく取りを始める。大まかにあくが取れたら潰したホールトマト(カットトマトで代用してもよい)と水ゆでした大豆を加える。好みで大豆以外の種類の豆を加えてもよいが、必ず大豆は使うこと。弱火で30分ほど煮て、火を止めて30分から一時間ほど室温でさまし、また弱火で30分ほど煮る。じゃがいもなどはとけてしまうが気にしない(ジャガイモがとけるのが嫌な人は最後に入れるか、あらかじめオーブンで焼き目をつけておくなどする)。大豆の具合によって味を含むのに時間が違うが、だいたいこの程度煮れば出来上がり。忘れずにしょうがを探し出して捨てる。仕上げに好みで黒オリーブかイタリアンパセリの片方、あるいは両方をまく。味をととのえるのには、少量の砂糖とやや多めの塩、それからワインビネガーかバルサミコを使う。好みの問題だが、塩味、酸味の両方をややはっきりわかる程度につける方がこの料理らしい。スープ皿の中央に置いたフランスパンの上にかけて食べるのもまた楽しい。


 「和牛の焼いたん」
 和牛の両面を軽く炙る。中は生になるように。塩とこしょうでいただく。それだけ。


 何かを書こうとすること、語ろうとすることはわりと難しい、少なくとも、わたしにとって。そのことを自覚しながら、そして今は何も語ることがないことも、それでも何かを書きたいと思う。それはある種の礼儀か、謝礼か、謝罪か、あるいはそれらのどれでもない、何かを出すことで自分のそんな気持ちを知って欲しいという感情か、どれか一つの名称を与えようもない入り混じった、未分化で幼稚な、自己満足なのか。語ること、ただ昨日作ったというレシピを何の工夫もなく並べるだけで、それで何かを読ませたいのか。けれども自分はすべてを諦めた、諦めざるを得なかったはずで、わたしが世界の誰にも積極的な興味を持てない、少なくとも、しばしば持てない状態に陥る、その代償として、世界の誰もわたしになど興味を持たなくていいと結論したのではなかったか。そんな自己分析にさえ塩とこしょうにあるだけの現実ささえもありはしない。