礼法

 先だって京都で酒を飲んだ際、男が女と酒を飲んで、それで女性が酔ってしまったなら、それは男が酔わせたということなのだ、ということをいった。いくらか時代錯誤な、女性蔑視的な言説かもしれないが、どんな事情があろうと、たとえば彼女の体調がその日たまたますぐれなかったり、男性側の感知しかねる理由によってその子が酔いつぶれてしまったとしても、それでもそれは、男が酔わせたということなのだ、とそんなことを言った。だから責任をとらねばならないとか、そういう話でもないのだが、何のはずみでそんな思いが言葉に出たか定かではない。ただ後に以下の随文を読んだ折、そんな自分の発言を思い出した。


 その金君が「君んとこの小さいのは」といったのは少しおかしかった。
 「お小さいのは」と普通の日本語ではいうところであろう。或は「坊ちゃんは」とか「御令息は」とかいったりするところであろう。私は金君の用語がこの際少し風変わりなのを小耳にとめた。むろんそれを失礼だなどと考えたのではない。礼法に拘わる考えも気持も、私には毛頭なかったけれども、とにかく少し異風には感じられた。
 私の耳にとまった右の小さな点は、それだけであったならば暫くの後に、健忘症の私のことだからすぐと忘れられてしまったに違いない。
 ところがその後数日して、もう一度金君と出会ったときに、またしても雑談に耽っていると、話柄の転々とする間に私は金君から奇妙なことを聞かされた。
 金君の話によると、朝鮮の習慣では、たとえば夏の暑い日に、田舎道を歩いていて、渇を覚え、とある農家に入って水を乞うたとする、そうして田舎娘から一わんの清水を恵まれたとする、それをぐっと飲みほしてさてそのわんをかえすときに、いやどうもありがとう、とお礼をいってはいけないのだそうである。昂然として、お礼はいわず、だまって容器を娘にかえす、それが立派な紳士のやり方なんだそうである。私にはそのやり方、習慣の意味が、急にはのみこみがたかったから、少しく念入りに問いただしてみた。金君の説明によると赳々たる男子は、そんなつまらないこと、それしきの瑣事にはお礼なんぞをいうものではない、というのがどうやらその礼法の骨子のようであった。それではどうも不自然ではないか、夏日渇きに耐えかねて、一わんの清水を恵まれるのは、ありがたいことに違いないのだから、素直にありがとうといってはどうか、それを省略するのは私どもにはできがたいことだ、と私は反問をくり返したが、そこが朝鮮式礼法の面白いところで、かんじんのところだという金君の説明であった。
 そう聞いてみると、そういう風なやり方が、双方の間で諒解され自然に成り立っているのなら、それも面白い方式習慣のように、いくらか私にも納得されないでもなかった。
 それ位の気位で以て、赳々たる男子は、事に当って、立派に責任をとる、という背後の何ごとかが、この際、不文律として尊重されているのではなかろうかと、どうやら私にも朧げながら納得ができたのである。そうして私は、「お坊ちゃん」などと、金君がいわないのを面白いことと思った。

酔っ払いのたわごとと比較してよいものではないが、この「朝鮮式礼法」の骨子と、あるいは女性が酔ったらそれは男が酔わせたのだ、と受け取ることとは、どこか似ているような気がしなくもない。なにか通ずるものがあるような、いや、似てないか、まったく別の、はなはだ関係ないことだったかもしれない。