身勝手の覚悟

 これも義理というわけではないが、何となく済まなく思っていること。
 しばしば拝読させていただいている日記や、いや、たまたまなにかの偶然で訪れたようなところにせよ、記事を見て、何か言わなければならない、何か伝えなければならないと思うことがある。自分の抱えた問題意識にどこか通じて来るような記事、わたしにとっては痛くともそれでも認めざるをえないことを書いている記事、言葉にする以外にもうどうしようもないものを血糊で濡れたような文字で綴られた記事、共感できるわけじゃない、相容れない、むしろ湧き上がる嫌悪感や反感で一杯になってしまいかねないようなものでも、けれども自分と同じように苦しんでいるひとがいることが、その苦悩自体は同じではないにしても、わたしにとっては救いにもなることがあるのだ。そういうものを目にすると、どうしてもこれは自分が何か言わなければ、コメントでもトラックバックでも何でもいい、何か反応を返したいと思うことがある。
 義理なんて言えたものじゃない、全部自分の都合でしかない。済まないと思うのもお門違いだし相手にしたらいい迷惑だろう。結局わたしがしようとしたのは、ある種の押売りに過ぎない。わたし自身が抱え込み、そしてわたし自身で処理すべき荷を、たまたま見つけた誰かの記事にかこつけて、これ幸いと押し付けようとしたのかもしれない。彼らにとってはただの厄介ごとに過ぎないだろう。最初の行の挨拶も、また数行に渡る前置きも、ただただ自分がしていることを誤魔化し正当化するための、ていのよい言い訳をしていたのだ。
 それは苦くも醜くもある。何かを書こうとして、その考えがよぎるたびわたしは恥かしさに身がすくむ。書きかけた文章を眺めて、ひとつひとつの言葉の中に押し付けがましさや自己正当化の断片が表れているのを知ると、わたしはついにそれ以上言葉をつらねられなくなって、送信ボタンを押せないままに閉じてしまう。何かを一度は書こうとしたこと、何も結局書けなかったこと、その両方をわたしはいつも悔やむのだ。だが元来、何かを語るとはそんなことではなかっただろうか。
 あるいは読書も似たようなものかもしれない。わたしのどこかに触れてくるような作品に、つい語りかけたくなるのはこれと似ている。文学など、所詮はなんの価値もない。だがそれでも意義を求めるならば、読者にとってはこれが答えになりうるだろう。語る言葉を見つけられなくとも、ただ語ろうと思ったことが、ひとつの意味にもなるだろう。まただからこそ作品は、どんな批評に対しても開かれてなければならないと思う。それが作品であるならば。
 もちろん、わたしが読んだ日記のすべてはそうした作品とは違う。開かれている必要はないし、読者であるわたしにも何かを押し付ける権利もない。だが、だからこそ、わたしはそれに何か書かなければならなかったとも思うのだ。権利も資格もないからこそ、ただ純粋にわたし自身の目的のためそうしなければならなかったと思うのだ。その責任や自覚を引き受ける覚悟がわたしに足らなかったのだろう。それが迷惑であっても、また厚かましさであっても、それを分かりつつ書くだけの自分の覚悟がなかったのだろう。
 覚えているだけでも、そうした記事は五つくらいはあったと思う。どれも旧聞に属するような、もう流れてしまった過去の話題だ。今更とも思いもする。けれどこれからできるだけでも、自分が強く惹かれてしまったものだけでも、ただわたし自身のためだけに何かを返していこうと思う。

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