キャッチ=22

海外では原発で作業してる方々を"Fukusima 50"、KAMIKAZEなどと持ち上げて大賛美を始めたらしい。今こんなことを言ってはならないかもしれないが、これ自体はとても気持ちの悪い運動に見える。事後に英雄と祭るなら理解できるが、進行している戦争の中で英雄を作り上げるのはどうか。



ジョーゼフ・ヘラー『キャッチ=22』の21章で主人公ヨッサリアンは勲章を授与され、その授与式に真っ裸で出席する。式典の主役が素っ裸であることに高級将官たちはみな絶句し、勲章授与式典の荘厳さはグロテスクまたコミカル("grotesque", "bizarre", "surrealistic", "comical" などの語が使われている)なものに変質させられてしまう。しかしヨッサリアンは、なんのためにそんなことをしたのだろうか?

この『キャッチ=22』の世界の中で進行している戦争において、勲章は兵士たちに出撃を促し、軍(正確には、軍ではないが)に忠誠を誓わせるためのエサ、ニシンにすぎない。後の40章でコーン中佐はヨッサリアンに問いかける。「お前はその勲章をもっともっと新しい勲章で飾り立てたくないのか? このすばらしい出撃回数記録のために、もっともっと出撃して貢献したいと思わないのか? (抄訳 原文は "Don’t you want to earn more unit citations and more oak leaf clusters for your Air Medal? Where’s your ‘sprit de corps? Don’t you want to contribute further to this great record by flying more combat missions?")」コーン中佐はあからさまに勲章をエサにしているが、ではどうしたらただの金属メダルにすぎない勲章がエサとして価値を持つのか。

実は勲章に価値があるわけではない。勲章は、「価値があるから荘厳な式典において英雄的行為を行ったものに与えられる」のではない。荘厳な式典において与えられるからこそ、人々は勲章に価値があると思い込むのであり、人々にそう思い込ませることこそが式典とその荘厳さの目的なのである。荘厳さがなければ式典などただの奇妙な集会にすぎず、勲章は金属片である。

ヨッサリアンの裸での出席はこの儀式の荘厳さをぶちこわしにする。彼らが感じているグロテスクさは、勲章を授与される「英雄」の貧相な肉体を目にしたからでなく、「英雄的行為を行ったものに与えられるほど価値ある勲章」と皆に思わせたかったものが、とんだ金属メダルであることが「裸にされた」瞬間であるからだ。この「金属メダル」のいかがわしさこそが"grotesque" "bizarre" "surrealistic"そして "comical"なのだ。



彼らを英雄視するのが間違っているとは言わない。だがこうして戦争が進行している最中にこれをやられると、ヨッサリアンの勲章を思い出さずにはおられない。

感覚

たまにニュースを見る。以前から感じていたことだけど、ニュースや世間が当たり前に前提としていることと自分の感覚や認識が大きくずれていることに気づかされる。困ったなと思う。

相撲に限った話でなくて、見世物として(つまりエンターテイメント、興業として)スポーツをやる以上、八百長なんてあって当たり前、ない方がおかしいと思っていたのだけれど。どうもこの認識の方が世間ではおかしいらしい。相撲だろうがプロ野球だろうがボクシングだろうが、そんなもんなければ見世物になりえないと思うのだけど。
あと素人考えかもしれないけど、あんな15日連日で格闘するのに八百長完全に無くしたら、怪我人だらけになって、見世物として維持できないと思うのだけど。どうなのだろう。

減税して得するのはお金持ちや、地位なりなんなりを持っている側の人で、持たざる者ほど損すると思うのだけど。お金持ちや大企業などが現市長に投票するのはとてもよく理解できるのだけど、むしろお金のない人などが支持してるのが全く理解できない。「俺たち金無いのに議員やってる奴らばかり税金から高給取っててずるい」って目先の感覚に、お金のない人たちが踊らされただけに見える。
それと税金って、個人個人じゃできないことを、みんなからお金集めてみんなのためにしましょうってものだと思うのだけど。たとえるなら、俺はキャベツ作ってる。俺はそのままだとキャベツしか毎日食えない。隣のやつはカボチャ作ってる。そのままだとカボチャしか食えない。だからいったんみんなから少しずつ集めて、みんなの野菜で料理しましょうって料理人が政治家だと思うのだけれど。ただ「減税します」言うだけで中身の無い名古屋市長のせりふは、料理人で言えば「俺らが料理するよりおまえら各自でそのまま野菜食った方が旨いと思うから勝手に喰えよ」って言ってるように聞こえる。
自分がレストランの経営者だったら、こんなコック即クビにすると思う。

  • 京大ほか各大学入試での不正

そんなもん昔からあって当たり前。今回出てきたのはほんの氷山の一角で、むしろ上手い人たちは表に出ないようにやっていた。入試の不正を根絶することは不可能だろうし、そもそも根絶する必要もない。
と思っていたのだけどどうも世間の認識は違うようだ。
入試ってのは、要するに各大学が自分とこに都合のいい人材を選ぶ手段なんだから、都合よく選べればそれでいい。不正があろうが無かろうがそんなのは問題ではない。
たとえばある問題を理解できるような生徒が欲しいなら、その問題をきちんと理解して解答を書けるかだけ調べればいいと思うのだけれど。それがインターネットで人に教えてもらった答えだろうが、自分がその場で思いついた答えだろうが関係なく、きちんと理解して書いているなら合格に値するだろうし、人に教えてもらった答えを丸写ししただけの解答では正解にならないような出題がされているものだと思っていたのだけれど。
まあよく分からない。

あなたたちは何をしていたのか、わたしは何をしていたのか

頼まれて中学三年生の教師をすることになった。既に十日ほどが過ぎた。まもなく高校受験を控えた生徒である。


彼は勉強ができない。
彼には「私が本を読む」のか「本が私を読む」のか、その区別がつかない。ことばというものの大切さも理解しない。美しい花と言う時に、「美しい」が「花」を説明しているのか、「花」が「美しい」を説明しているのか、その区別が彼の中にはない。


あなたたちは何をしていたのだ。あなたたちは、なぜそれを放置したのだ。


彼は障害者ではない。よく言われる学習障害でも識字障害でもない。生まれ持った能力に何の問題もない。ただ丁寧に説明しさえすれば、これらのことを、ことばの仕組みも、ことばの使い方もよく理解する。それだけの能力がある。
彼に無かったのは、ただ適切な教育である。


あなたたちは何をしていたのだ。名古屋市立小幡小学校の教師達は、何をしていたのだ。彼の親やまわりの人々は、いったい何をしていたのだ。わたしは、立場は違えど、ひとにものを教える役割の人間としてこれを恥ずかしく思う。申し訳なく思う。彼らは、わたしたちは、先生として何をしていたのだ。


「先生」ということばは、「先」に「生」きると書く。わたしたちは彼より早く生まれ、先に生きてきた。先に生きたものとして、自分たちの得たものを、修得した知を、彼に分け与えるものである。彼の親、彼のまわりの年長者たち、わたしも、小幡小学校の教師たちも、今彼が通う守山東中学校の教師達も、あなたたち(わたしたち)は先生ではない。先生と呼ばれる資格もない。あなたたちは仮にも先生と呼ばれるものとして、何をしてきたのだ。あなたたちは先に生きるものとして、何をしていたのだ。


彼は「ことば」ができない。それはおそらく、彼の責任とは言えない。だのに今、それを取り返せるのは彼自身しかいない。彼は自分で、自分ののちのいのちを懸けて、それを取り返すしかない。あなたたちは(わたしたちは)それを恥ずかしいと思わないのか?


十日あまり、彼はわたしの生徒として、わたしが望んだ以上の努力をしている。それはそうだ。彼にはもう、取り返す機会はないのだ。今を除いて取り戻すことも、その機会もないのだ。


ことばというものの大切さを理解しなかったのは誰だ? 彼ではない。あなたたちは何故、それを理解しなかったのだ。あなたたちはそれでも「先生」か。「先生」と呼ばれる資格があると思っているのか。あなたたちは「先生」ということばで呼ばれながら、いったい何をしてきたのか。先に生きるものとして、何をしてきたのか。それを恥ずかしく思わないのか。


ことばの大切さを分かっていないのは誰だ。


彼は中学に上がる際、守山東中の担当者たちに障害児学級に入れるかどうかを問われたと言う。しかし彼は断じて障害者ではない。障害者でないものが、ただ適切な教育をそれまでの六年間に受けられなかったというだけで、障害者学級に入れるかどうかを問われたのだ。小幡小学校の教師達は、これをどう思うのか。


わたしが同じ小幡小学校の生徒だった昔、一学級は五十人ほどの人数がいた。今ではそれは削減されて、四十人かその程度の人数と聞く。思うに限られた授業の時間でそれだけの人数に、一様の教育を施すことは不可能であろう。ならば七割、せめて六割の生徒が理解することを、授業で教えようとするだろう。つまり三割か四割の生徒は画一的な授業の方法では理解できないということになる。そしてその三割か四割のために、本来教師はいるのである。
画一的な、まとめて多くの生徒に教えるやり方では理解できない生徒には、それぞれの生徒に理解できるやり方で、それぞれに教える他はない。
ひとには様々なひとがいる。ものの見方もとらえ方も、ものごとについてどう考えるか、考える筋道や方法も、ひとりひとり違うだろう。その中の多数に分かるやり方で、七割か六割を救おうとするのが授業である。そして多数に施すやり方では理解できないひとりひとりの個性のために、その個性に分かるやり方で個々に教えるのが教師である。


小幡小学校の教師達よ、そして守山東中学校の教師達よ、あなたたちは教師ではない。


教育をしなかったのだから、あなたたちは教師とは呼べない。


教育には、あるいは勉強には、様々な側面がある。いろいろなとらえ方がある。面白いから、勉強をするものもいる。勉強を楽しめる生徒は幸いだろう。一方で教育には、武器を与えるという意味もある。
生徒達は遅かれ早かれ社会に出る。どんな言葉で言い繕おうが、社会は結局戦争である。たとえば就職の一つしかない椅子を巡って三人が争うこともある。譲れない夢を叶えるために、互いに蹴落としあうこともある。どうしても好きになったひとりのために、二人が恋を伝えることもある。
その争いの、武器を与え、武器の使い方を教えるのは教育である。


あなたたちは武器も与えず、武器の使い方も教えず、丸腰で彼を戦争に出そうと言うのか。


彼は今後、どう生きるのか。生き延びるすべも与えられず、生き延びるための武器、道具も持たず、彼はどうやって生きるのか。生まれ持った障害も無く、彼自身の落ち度もなく、ただ武器を持たされなかったと言うだけで、彼は社会に殺される。あなたたちに、それを自覚した彼の絶望が分かるか?


彼はまもなく受験を控える。そののちに待ち受けるものに比べれば、たいしたものではないだろうが、これもまた戦争である。彼は武器を持たず戦争に赴く。もしその戦争に負けたなら、彼はその先にあるさらに苛烈な戦争の、その人生という戦争で生き残るすべを、生き残るための武器を、得る機会を永遠に失う。彼が生涯の戦争を、その中で生きるすべを、武器を手に入れるためには、何にかじりついてでも、今目の前にある受験に勝ち抜き、高校の三年間で武器を手に入れるしかないのだろう。


わたしもかつて、授業を理解できない三割だった。授業のやり方からはあぶれてしまう、おそらく個性的な生徒だった。平均的な考え方や筋道よりも、自分なりの筋道でしか教科書を読めない生徒だった。わたしもまた、そのまま放置されたら彼と同じように武器を持たず放り出された生徒となっただろう。大学どころか高校さえも行けなかったかもしれない。
彼が三年前まで通ったその名古屋市立小幡小学校の、わたしが通った時代には、しかし幸村先生という恩師がいた。彼女はそんなわたしに、わたし自身の筋道にあわせたやり方やものの見方で、教わるべきことを、教科書の内容を、読み取るやり方を教えてくれた。彼女はわたしに武器を与えてくれた。授業の筋道では理解できなくとも、わたしなりの筋道で、教育を読み取るやり方を教えてくれた。わたしはそうして武器を持った。わたしは長じて、多くの人がうらやむような大学に入り、院に進み、自分の筋道の中で勉強の、学問の意味を知った。あらゆることをわたし自身のやり方で思索することができるようになった。けれどもその始まりは、彼女の教育にあっただろう。
なぜ小幡小学校は彼女のやり方を失ってしまったのか。


彼は今、ようやく自分の状況を見つめている。自分がどれだけ遅れているか、まもなく始まる戦争の、その戦争に巻き込まれる兵隊でありながら、武器を持たされていないことを初めて自覚した。あなたたちに彼の絶望が分かるか。彼は、彼の責任ではなく、ただ教師や親や年長者たちにニグレクトされたと言うだけで、そのたいせつな生きるすべを持たされていない。武器も鎧も道具も持たず、ひとがひとを蹴落としあうその苛烈な戦争にかり出されることになる。彼の責任は何もなく、また生まれ持ったハンディもなく、それでも今、それを取り返せるのは彼自身しかいない。あなたたちが放置したことの、あるいはわたしたちが放置したことの、その失地を取り返せるのは彼自身しかいない。彼の責任ではないのに、彼自身がそれを取り返すしかない。


けれども彼は努力する。わたし自身の望外に彼は今努力している。自分が与えられなかった九年間を、彼自身の努力において取り返そうと、絶望的な努力をしている。わからないことばの意味を、彼自身の筋道でわかろうと、いのちを懸けた努力をしている。もしわたしが同じ立場であったなら、おそらく絶望して勉強そのものを止めてしまうだろう。そしてそのまま堕ちていくだろう。だのに彼はひとりで努力しているのだ。彼がなくしたわけではないものを、しかし彼自身の責任と努力において取り戻そうと努力しているのだ。わたしは今まで、彼ほど努力する生徒を見たことがない。今まで小学生から高校生、そして浪人生まで見てきたが、できない子もできた子も、一流と言われる大学の医学部に行った生徒も、あるいは落ちこぼれていたような子も、そうした生徒たちのどの子と比べても、彼ほど努力している生徒を見たことがない。わたし自身、あれほど努力したこともない。
彼はそうした絶望の淵で、のちのいのちを懸けてまで、今まで与えられなかったものを取り戻そうと人外の努力を続けている。彼がもし今取り戻せなければ、生きるすべを、生き残るための武器を得ることも、この先に一度もないだろう。あなたたちに(わたしたちに)その絶望が分かるのか?


彼は武器を持たず戦争に赴く。

恋する凡人

先日スピッツのシングル「つぐみ」が発売された。例によって当然のように購入したのだが、初聴の印象はよいものの、はっきりとそこまでいいとは思わなかった。
ただ漠然と、聴き込むうちによくなってくるだろうな、という予感があったのみだった。


それが数日流しているうちに、突然、曲の世界がひらけた。


「つぐみ」 これは確かにいい曲だ。だがいい曲止まりだ。
問題はその後にライブから収録されている「恋する凡人」。これがちょっと普通でなかった。
曲調の疾走感、聴くうちにだんだんとつながってくる言葉の世界、それまで断片でしかなかった語と語が、あるときにしっかり自身の抱えた言葉とひっかかり、つながって、見たことのある、けれど見たことのない、見たくもなかった懐かしい世界が無理やり開かれその中に転がり込まされる。どこまでも転がって行かされる。断片をまとわりつかせて、断片になって、その断章の終わりの崖まで。



       凡人 狂った星 進化 どしゃぶり 雑草 歌詞。



草野正宗のいつものフレーズだ。そう思って流していたものがからみついてくる。蹴り飛ばそうと、踏み潰そうとした雑草が足を取るように。俺を転ばせる。どこまでも転ばせていく。



       恋する凡人、「変わりたい」何度思ったか、今走るんだどしゃぶりの中を、定まってる道などなく、雑草をふみしめて行く、これ以上。



       やり方なんて習ってない自分で考える。意味なんてどうにでもなる。進化する前に戻って何もかもに感動しよう。
       まともな星。おかしくなっていたのはこちら。君みたいに良い匂いの人に生まれて初めて出会って。これ以上は



既視した光景が自分の中に勝手に展開される。ああ確かにそうして俺も走ったのだどこまでも。今ももう全て忘れたけれど意味もなくしたけれど目的も目標も忘れさったことすら忘れたけれど失ったけれど、ただ今もまだ俺も走り続けていたのだ。まだ走り続けていたのだと、痛みと疾走が蘇る。



       今走るんだどしゃぶりの中を 明日が見えなくなっても
       君のために何でもやる 意味なんてどうにでもなる
       力ではもう止められない


       そうだ走るんだどしゃぶりの中を 矛盾だらけの話だけど
       進化する前に戻って なにもかもに感動しよう
       そのまなざしに刺さりたい


       走るんだどしゃぶりの中を ロックンロールの微熱の中を
       定まってる道などなく 雑草を踏みしめてく



定まってる道などなく雑草を踏みしめてく。自分がまだ走り続けていたことも、何かに向けて走っていたことも忘れた俺を揺り起こす言葉。意味も目的も失ってもう、トロフィーもない疾走だけれども。俺も走っていたのだ。
蘇った疾走の高揚感。定まってる道などなく雑草を踏みしめてく。だが「これ以上は歌詞にできない」。



       走るんだどしゃぶりの中を ロックンロールの微熱の中を
       定まってる道などなく 雑草を踏みしめてく
       これ以上は歌詞にできない



失ったことすら失ったランナーであることを容赦なく俺に突きつける。これ以上は歌詞にできない。そうだこれ以上はもう言葉も届かないのだ。意味も目的も忘れてそれでも走り続ける俺が届かないその先。何があったか確かにしっていたけれど知っていたことすら失った先。その疾走から許されて崖から足を踏み外すその時まで凡人は走り続けるしかないのだろう。

つぐみ

つぐみ

巨人戦

今日は今シーズン初の巨人戦と言うより、自分にとっては「俺の赤星」の解説デビュー戦だったわけだけれども。

赤星、話が長い。

こればっかりは中畑の方が一日の長があるなあと。中畑の解説うざいけど。
ふられないと話できないのに、マイクをつかむと解説が長いのはマイナス。

もう少しコンパクトに要点をまとめて、マイクは積極的につかみに行く。がいいんじゃないかなあ。

もっと自分から話す順番を取りに行っていい。でも話は短く簡潔に。が欲しいとこかな。
努力の人、赤星だしすぐよくなると思うけど。



あ、ケガして立ってるだけの四番とか言ってゴメンナサイ
でもお願いだから記録切ってケガなおして、万全にして出場して欲しいです。その方が選手生命長いと思うんです。